植物のタネには「生命」がいっぱい

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一物全体食とは、いまでいう「ホールフード」のことです。これは一般的な栄養学のとらえ方とは、かなり異なっています。

栄養学では食べ物に含まれる成分のひとつひとつを分析することでその働きを調べていきますが、そうやってバラバラにした成分をつなぎあわせても「生命」が生まれるわけではありません。

食べ物を「栄養素の集合体」ではなく・1つの「生命」としてとらえる。ホールフードの原点もここにあります。成分を分析するだけではとらえきれない生命のありようを前提にした場合、むしろホールフードの発想のほうが当たり前かもしれません。

つまり、食養の世界で白米よりも玄米がすすめられたのも、精製していない玄米のほうが栄養価が高いからではありません。栄養価だけを問題にするならば、ほかの食材で足りない栄養素を補えばすむことですが、そうやってバランスを取っても部分が全体になるわけではない。

つまり、ほかの食材でも補いきれない何かがある。その補いきれないものが、生命なのです。コメは植物のタネであり、そこには当然、生命が宿っています。土に埋めて水をまけば発芽する以上、生命は内包されているでしょう。

これが、「コメから生命をいただく」というホールフードの発想、ひいては玄米を食べることの意味につながってくるのです。

脚気は「ミトコンドリアエ場」のトラブル

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脚気は、江戸時代中期、都市部で白米が普及したことで蔓延した病気です。脚気にかかると、倦怠感や食欲不振、むくみ、下肢のしびれなどが起こり、「ブラブラ病」と呼ばれるほど、気力・体力が奪われ、仕事もままならなくなりました。

最悪の場合、生命を落とすこともありました。その後の研究によって、精米することでビタミンB1が豊富に含まれる糠や胚芽が取り除かれてしまうことに原因があるとわかってきましたが、なぜ脚気とビタミンB1欠乏が関係してくるのか?

カギを握るのは、細胞内のエネルギー製造工場、ミトコンドリアです。コメの主成分である糖だけ補給しても、ミトコンドリアの工場は稼働しません。

糖が取り除かれることでビタミンB1が不足していれば、エネルギーが十分に生産できず、細胞の代謝が滞ってしまいます。

「倦怠感」や「食欲不振」といった脚気のもろもろの症状がエネルギーの不足した結果と考えれば、決して不思議ではありません。要は、生活が豊かになり、食べやすい白米が広まったことで江戸庶民はビタミンB1の慢性欠乏に陥り、ミトコンドリアで十分なエネルギー代謝ができなくなったのです。

とはいえ、ビタミンB1は豚肉やうなぎにも豊富に含まれます。実際、戦後に肉食が普及してからは、脚気が社会問題になることは、ほぼなくなりました。近年の若者の無気力を一種の脚気症状ととらえ、慢性的なビタミンB1欠乏が原因だとする意見もありますが、いずれにしても「玄米を食べれば改善できる」という言い方は成り立ちません。

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「玄米食」は日本の伝統食ではなかった

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日本人は植物を上手に摂取する術を身につけていくことで、心身を穏やかにし、なおかつ芯のある生き方、つまり「ハラの据わった生き方」を実現してきました。

とは言っても、昔の日本人が「完全なべジタリアン(ヴィーガン)」だったわけではありません。彼らは魚も食べていましたし、時には肉も口にしたでしょう。

身近にあるものを食べていただけで、「植物をたくさん食べたほうが健康になれる」という考えは、ほとんど持っていなかったはずです。

また、意外にも、完全な「玄米食」だったわけでもありません。きね精米技術が確立するまでは、白に脱穀したコメ( つまり玄米) を入れて杵で繰り返し搗くなどして籾をはがし取っていましたから、搗くうちに糠や胚芽が部分的に削れることも多くありました。糠が部分的に削れたそのコメは「分づき米」と呼ばれ、白米に近い状態になっています。

江戸時代などに庶民が食べていたのは、厳密にはこの分づき米だったでしよう。いまスーパーで売られているような玄米が主流だったわけではないのです。

「玄米食の歴史は古いものではない」ことの証でもあります。「コメは、精製せずに食べたほうが体にいい」と昔から考えられていたわけではなく、それは明治時代以降に生まれた新しい考え方なのです。

その意味では、「近代化の産物」と言えるでしょう。玄米食の効用が最初に注目されたのは、明治末期から大正時代にかけてですが、その背景にはいくつかの要因が絡みあっています。

1 つは、精米技術が進んだこと。そして「健康とは何か? 」「ヒトは何を食べるべきなのか? 」という点について深く考える人が増えてきたこともここに関与しています。

近代化の波が押し寄せ、玄米食の効用に目覚める日本人が現れたのです。ヨーロッパから栄養学が導入され、肉や乳製品の効用が説かれるようになる一方、これとは別に、東洋医学的な発想をベースにした「食養」の考え方が生み出されたのもそうした動きの1つでしょう。

「玄米菜食」はこの食養の核として位置づけられるもので、戦後に広まるマクロビオティツクの源流にもあたります。この当時、なぜ、こうした食養が説かれるようになったのでしょうか?ここに関係してくるのが、当時、死病と怖れられていた脚気という病気でした。