「玄米食」は日本の伝統食ではなかった

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日本人は植物を上手に摂取する術を身につけていくことで、心身を穏やかにし、なおかつ芯のある生き方、つまり「ハラの据わった生き方」を実現してきました。

とは言っても、昔の日本人が「完全なべジタリアン(ヴィーガン)」だったわけではありません。彼らは魚も食べていましたし、時には肉も口にしたでしょう。

身近にあるものを食べていただけで、「植物をたくさん食べたほうが健康になれる」という考えは、ほとんど持っていなかったはずです。

また、意外にも、完全な「玄米食」だったわけでもありません。きね精米技術が確立するまでは、白に脱穀したコメ( つまり玄米) を入れて杵で繰り返し搗くなどして籾をはがし取っていましたから、搗くうちに糠や胚芽が部分的に削れることも多くありました。糠が部分的に削れたそのコメは「分づき米」と呼ばれ、白米に近い状態になっています。

江戸時代などに庶民が食べていたのは、厳密にはこの分づき米だったでしよう。いまスーパーで売られているような玄米が主流だったわけではないのです。

「玄米食の歴史は古いものではない」ことの証でもあります。「コメは、精製せずに食べたほうが体にいい」と昔から考えられていたわけではなく、それは明治時代以降に生まれた新しい考え方なのです。

その意味では、「近代化の産物」と言えるでしょう。玄米食の効用が最初に注目されたのは、明治末期から大正時代にかけてですが、その背景にはいくつかの要因が絡みあっています。

1 つは、精米技術が進んだこと。そして「健康とは何か? 」「ヒトは何を食べるべきなのか? 」という点について深く考える人が増えてきたこともここに関与しています。

近代化の波が押し寄せ、玄米食の効用に目覚める日本人が現れたのです。ヨーロッパから栄養学が導入され、肉や乳製品の効用が説かれるようになる一方、これとは別に、東洋医学的な発想をベースにした「食養」の考え方が生み出されたのもそうした動きの1つでしょう。

「玄米菜食」はこの食養の核として位置づけられるもので、戦後に広まるマクロビオティツクの源流にもあたります。この当時、なぜ、こうした食養が説かれるようになったのでしょうか?ここに関係してくるのが、当時、死病と怖れられていた脚気という病気でした。